日々のものを積み上げていく、そこからしか人は成長しない ジャパネットたかたが生まれた経緯そして果敢に挑戦するまで
まず、始めにぜひ高田社長様の、ジャパネットたかたが生まれた経緯をお話いただければ、と思います。ご実家のカメラ屋を継いでで独立されたということですが、その前に貿易会社に勤務され海外駐在なども経験されていた、という記事も以前拝見いたしまして、大変興味がありますので。

大学時代、英会話をいろいろ勉強して、だから英語を使う会社に入りたかった。もともと自分は語学が好きで、授業へは行かずESSという英語クラブだけ行っていました。
就職はメーカーだけど貿易業があるところに入ったんです。それが22歳。23歳でドイツのデュッセルドルフを基点に8ヶ月ほど、東欧を中心にヨーロッパに駐在していました。ヨーロッパ諸国はほとんど行きました。もう飛行機も何百回乗ったか分からないくらい。当時、37年くらい前っていうのは海外が珍しい時期でしたからね。
もともと語学が好きで、特にしゃべることに興味があったんですけど、語学はひとつのコミュニケーションの手段であり、その国の文化圏を理解するための手段です。、そういう意味で、短い期間でしたがいろんなところを回れたのは、若い時期の感動的な仕事でしたね。

25歳くらいでその会社を辞めてたんです。友人に翻訳の仕事をしないかと誘われたんです。しかし、そう簡単にうまく行くはずもなく、実家の平戸へ戻ることにしました。
両親が写真屋をやっていて、兄や妹や弟も写真の専門学校を出て、地元でカメラ店の仕事をしていましてね。僕だけは全く写真の仕事をするつもりはなかったけど、、その当時はカラーの写真が盛んになりはじめたころで、家族から、「忙しいから手伝えよ」と。そうしているうちに写真の道に入りました。今の通販はそこが原点でしょうね。

海外で生活したことともつながってきますけれども、カメラの世界でも、プリントやカメラを売ること以外に、スリランカに写真添乗員でついて行って記念写真を撮る仕事とか、なんでもやったんです。
観光写真と言って、嬉野温泉のホテルに出入りして団体のお客様の宴会の撮影をする事業もやっていました。そこでもお客様とのコミュニケーション、触れ合う機会が非常に多かったんです。

北海道から沖縄まで、婦人会とか敬老会とか戦友会、病院の先生とかいろんな職種の団体が来て、宴会場で写真を撮るわけです。そこでどういう職種の方は、よく買っていただける、どこの県の方はあまり購入してくれない、といったことを肌で感じることができました。
この事業は十数年、四十過ぎまでやってました。そこで全国の購買に対するマーケティングを身につけたということでしょうね。
貿易を通じて海外で世界をみたことや、観光写真で毎日知らない方に接する機会をもらったこと。いずれも、ひとつの目標を決めてそこへ向かうという自分ならではの仕事、そこへ一日一日全力を尽くしていました。仕事は目の前にありましたからね。

カメラのたかた佐世保営業所は、長崎県境の5000人くらいの三川内町からスタートしました。私が次男坊で、結婚したばかりで一番動きやすかったんです。プレハブからお店を作って結果的には4店舗出店しました。
当時は全国規模のお店が多くて、大手が写真現像プリントを「明日できます」という看板を出したらうちは「今日できます」という看板を出して通勤前にフィルムを出して夕方帰宅するときにお渡しできる仕組みを作ったりしたんです。お客様に満足していただけるように、品質のことも考えてフジカラープリントをずっと使っていました。

そうしているうちに4店舗で二億五千万ほどの売上を上げるようになりました。当時、店舗改装オープンときなどに地元ラジオ局からラジオ中継車が来て店舗の宣伝をやっていました。
ある日、そのラジオ中継車でコンパクトカメラの紹介をしたら、50台も売れましてね。ラジオを使ってカメラを売るなんて当時は考えられない。約2万円のカメラを5分で50台売って100万円売れる、そういうやり方もあるんだな、と。
当時は信頼がなければ、お金を出しても放送をさせていただける業界じゃなかったから、お願いして信頼を得て少しずつ媒体を増やしていきました。

現在は一日2本させていただいているラジオ局さんも有ります。昔は年に2回、これが限界だと。これを年に6回、月に1回、週に1回‥と、ずーっとこうして交渉していきまして。それからだんだん長崎だけでなく、福岡とか全国にも展開できないかと。
ずっと説得して(放送してくれるラジオ局や番組を)増やしていくのが大変でしたね。それでなんとか全国展開しても、たとえば北海道のお客様なんて、「名前もしらない佐世保の業者から買って大丈夫なのか?」となるわけでしょう。そこでやはり品質というところを重視して、ラジオで3年間一本もクレームがなかったような気がします。
私たちがラジオショッピングでナショナルブランドを初めからご紹介している理由は、フジフィルムなりキャノンなりお客様に安心してご購入いただきたいと考えてたからです。
そうこうするうちに、ソニーからパスポートサイズのビデオカメラが発売されました。この商品をどうしても取り扱いたいと考え、ソニーの佐世保営業所に飛び込んで行って交渉したんです。そして、代理店として商品を販売し始めました。佐世保に出てきていた弟と競争しながら、夜遅くまで、近所の方の家に商品を売りに回りました。そういうことを積み重ねながら、5000人ほどの町を拠点に月に100台ほど売ることができました。一日で100万円売れた日には、大喜びして家に帰ったのを今でも覚えています。
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